さっと

秋田県南に住んでいる「風変わりな人」・・だそうです。

どうすればよかったのか・・いまだに

雲仙普賢岳が噴火して災害となったときに、小学校の子どもたちから、被災地に届けてほしい・・・と、文集を預かりました。
 
どこにどういう風にお届けをすればいいのかわからず、日本赤十字社に連絡してみましたが、今は扱っていない・・・とのことでしたがアドバイスがあり、災害対策本部あてに電話をしたら、テレビで聞き覚えのある声の方が対応してくださいまして「それでは、まずは、本部あてに送付してほしい。」とのことでした。
郵便局に行って、窓口の郵送担当の方と郵送方法についていろいろとお話をしながら、あて名を何回も確認して大き目の封筒に入れて送付しました。
 
そして、それっきりになってしまいました。
 
せめて、そういう応援文集を送ることにしたというニュースをテレビなどで取り上げていただいてから送付するか、日本赤十字社に届けたほうが、まだ、よかったんじゃぁないんか・・たぶん、災害地で、いろんな支援物資の間に挟まったまんま、見つけていただけないまんまで、対策本部が解散し、残りの物資といっしょくたにされて、廃棄されてしまったのではなかったのか…いろいろ考えました。
 
学校に問い合わせをしてみたら、コピーはとっていなかったのだそうで、もう、二度とお目にかかることはなくなってしまったあの子どもたちの思いやり・・・しばらくして、少し落ち着いたときに、テレビなどで次々と届いた思いやりのお手紙のやり取りが紹介されるのです。
あの文集は、対策本部にとどいたという言葉・ハガキ一つさえも帰ってこない…タイミングも悪かった・・まだ、どさくさしている最中に本部に届いても、活かせるものではなかったのでしょうね、きっと・・送付するのが早すぎたこともあるんだなぁ><
 
せめて、対策本部で働いていた方のどなたかが、目を通してくださっているのだけれども・・・あわただしい本部内では、そういう余裕はなかったのだろうねぇ…そういうことも、少しは可能性があったのではなかったのだろうか・・そう思いたい。お返事をいただかなくっても、そういうことが出来ているんだったなら…ただのゴミにされたのだとは思いたくないのです。

少し落ち着いたころに、お互いにお手紙などをやり取りしているという華やかな報道があるたびに、自分の確認の未熟さゆえに、子どもたちのもとに、思いやりの心へのお返事がなんにも戻ってこなかったことが、長年仕事をしてきて、とっても、反省として、心に残っているのです。
大きな災害のその後の様々な報道を見るたびに、あの時の子どもたちに申し訳なくって・・絶対に、間違いなく、その被災地・対策本部には届いてはいるはずなんですが・・・そういえば到着の確認をできる書留にすることも、郵便局ではできる時期ではなかったのでしたし・・
 
子どもたちが書いたことに対する手ごたえを、工夫して、なんとかして残してあげられなかったのか…時期的な事だけでなく、いろんな条件が重なってしまったのでしょうが、悔やまれて悔やまれて・・・仕事を辞めた今でも・・いまだに、私の弱さゆえに悔やまれることがら=反省について、いろんなことが夢に出てきて、寝不足の日々が続いています。

朝になったらそういう反省内容の夢を見た・・・という感情的なものがのこっているだけで、その内容については忘れてしまって、心身の疲れだけが残っているのが、この頃の日々なのですが、昨日の3・11の追悼番組を見たせいなのでしょうかね・・・今回は、そういう夢を見た記憶が残っていました。