さっと

秋田県南に住んでいる「風変わりな人」・・だそうです。

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平和と幸せを祈ろう!

 

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そうだね・・としか、今の私には言えません。
子どもも無く、もう、召集されるような年齢では無くなってしまいましたから、反戦運動をするような立場には無いと思われますし、直接的な戦争体験もしてはいませんので…
あの広島にお届け運動をしていた時の折り鶴は、中途半端な数が物置に押し込まれていますが、再度立ち上がる事は無いのでしょう。
只々、仏壇の脇・頭上の和歌と遺影と肖像画を見上げて、手を合わせるのみでっす。
 

検索してみたら・・・hanatatibana.cocolog-nifty.com

皇后宮御歌

なくさめむ ことの葉もかな たたかひの にはをしのひて すくすやからを

    昭和12年9月23日 出征軍人家族に賜ふ

やすらかに ねむれとそおもふ 君のため いのちささけし ますらをのとも

    昭和12年11月30日戦歿者に賜ふ

あめつちの 神ももりませ いたつきに いたてになやむ ますらをの身を

    昭和13年10月3日傷痍軍人に賜ふ

    序

 皇后陛下に於かせられては常に戦歿者遺族、傷痍軍人及出征軍人家族の上に深く 御心を注がせ給ひ曩に有難き 御歌を拝し奉りたるところ政府に於て昭和十四年十月三日より同九日に至る一週間實施せる銃後後援強化週間に當り遺族、傷痍軍人及び出征軍人家族は其の感激を新たにし愈々君國に奉ずるの志操を固め歌心ある者の間に 御歌の懿旨の萬一にこたへ奉る歌を謹詠し奉らんとするの機運醸成せられ右謹詠歌の軍事保護院に送達せられたるものを同院より奉呈 台覧に供へ奉れり當職は 御許を得て右奉呈歌の御下げを願ひ之を収録印刷に附し巻頭に 御歌を奉掲し本冊子を作れり収録歌はすべて原歌のままなり

 昭和十六年七月          皇后宮職

 

我が家にあるのは、この印刷物の巻頭というモノを額表装したモノなのでしょうか?

皇后宮御歌 や春ら可に禰むれ と所於も不 君我堂免 いのちさゝけ志 万すら遠の 登毛

 

紙質が特別ですから・・・それとも誰かが書いた代筆?

昭和12年以前の戦死・戦没者ではないのですし、家族に仮名の名士がいたと聞いたことがありませんから、地域の筆が立つどなたかが書いて納めてくださったものなのかもしれません。

・・でも、恐れ多いといわれていたあの時代に地元の人がそんなことをするものかなぁ。

 

 
 
今日は旧暦六月廿九日 夏安居(中)解制 月遅れぼん 全国戦没者追悼式 終戦の日終戦記念日ということもあるそうです。) 東京富岡八幡宮例祭 お菓子の日 四緑 仏滅 きのと・み 廿八宿は「觜」の火曜日
 
 
 

0:30前に目を覚ましました。身体の節々(特に脚の関節)が重苦しいので、ストレッチをしてみました。しかし、どうにも感覚が戻ってくれません。もしかして、熱中症の前触れ?
扇風機を回しっぱなしの二階の室内温度は32度・・東北の山沿いの田舎は朝晩に冷えるものですが、それなのに、珍しく涼しくなっていない様なのです。

一階に降りてみたら30度。
エアコンのない我が家ですから、涼を求めると一階で眠るしかありません。
家の中にあるはずの小布団とガーゼケット数枚を探し出して、敷布と上掛けに使用することにしました。

最初は台所の板の間に眠ろうと思ったのですが(布団が薄くなっちゃっているせいなのか)寝心地がよくないので、居間の座卓脇に敷いてみました。窓を少し開けたら風があります。

明け方に一度、脚が冷えていた感触があったので、寝ボケ眼でも折りたたんだおなかにかけていたモノを開いて、脚にも掛けて寝たのですが、虫刺され感触があります。

6:30頃、北の窓からの陽の光が当たってまぶしくって目が覚めましたが、軽い頭痛があります。(本当は食後服用なのですが)薬を多めの水で飲んだら眠くなりました。

完全なる起床は10:30頃。底苦しい頭痛は治まってはいません。

起き上がってみたら室温は相変わらず30度。おっかしいなぁ。日中にもっと気温が上がる予兆でしょうか。

煙突効果を活かさないといけないので、思い切って二階に上がって、窓を開けはなして風を入れてみても、刻々と温度が上がっていきます。

 

 

 

第二次世界大戦の名称ですが、検索してみると、当時は大本営政府連絡会議では「大東亞戰爭」だったそうで、戦後のGHQにより「太平洋戦争」と改められたのだそうです。
その前に、いろんなのがあって、それぞれに「事変」とよばれているのがあって、1941年12月8日からが「戦争」という名称に変わっているんですね。